◆【出雲学】 神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一)

 

◆◇◆神々の国・出雲と環日本海文化圏の中心地・出雲

 初冬の旧暦十月、島根県・島根半島の西端の稲佐の浜で、神秘的で厳粛な神事が行われます(※注1)。全国の八百万の神々がこぞって出雲に参集して神議りをするというのです(神迎祭・神在祭・神等去出祭)。そこから、旧暦十月を出雲では「神在月」と呼び、他では「神無月」と呼びます。八雲立つ出雲の国は、神話の風景と懐かしい心の故郷を感じさせる、神々が集う国(古代が息づく神々の国・神話の国)なのです(※注2)。

 明治二十三年(一八九〇年)に来日し、伝統的な日本文化を研究したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「出雲は、わけても神々の国」「民族揺籃の地」であると述べています。出雲は古代日本の歴史と文化の重要な地(大和朝廷と出雲の緊張関係、国譲り神話に秘められた歴史的背景、倭建命の出雲建征討・出雲振根と飯入根の説話)であり、独自な歴史と文化を持ち続けた地(神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡、巨木文化を伝える出雲大社・四隅突出型墳丘墓、管玉・勾玉などの玉作り文化)でもあったのです。

 出雲の神話(『出雲国風土記』の国引き神話など)や文化(出雲系信仰と習俗など、出雲は宗教王国)を出雲という一地方のローカルな歴史と文化としてみるだけでなく、環日本海文化圏というグローバルな視点から見ると、出雲が日本海沿岸の国や地方と強く深く交流をもっていた先進の文化を持つ国(古代出雲王国)であったことを窺い知ることができます(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)神迎祭の旧暦十月、稲佐の浜にセグロウミヘビの一種が打ち寄せられます。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼びます。常世国から依り来るマレビト神)と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納されます(上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納されます)。神々が、海の彼方から続々と上陸してくるという、壮大な海辺の神秘的祭りです。

(※注2)出雲に関する神話は非常に多く、一般には「出雲神話」と総称されています。しかし、この出雲神話という呼び方には多少問題がありそうです。というのも、出雲の神話といっても『古事記』『日本書紀』の他にも、『出雲国風土記』『出雲国造神賀詞』などさまざまな文献に記載されています。これらすべてをひとまとめにして扱っていいものか、慎重な検討が必要のようです。『古事記』『日本書紀』の朝廷によってまとめられた出雲の神話を「出雲系神話」とも呼びます。出雲系神話は記・紀神話の三分の一以上にあたるとされ、とても大きなウェイトを占めており、内容的にも魅力的な物語がたくさん含まれ、最後には「国譲り神話」へと収斂していくのです。それに対して、『出雲国風土記』『出雲国造神賀詞』の在地でまとめられた出雲の神話を「出雲神話」とも呼びます。地名由来伝承に関わるものが多く、『記・紀』にはない「国引き」神話などがあり、またスサノオ命やオホナムチ命の姿も違い、神話の質的相違を感じます。

(※注3)神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などの考古学的発見は、ヤマト政権に対抗しうるような高い技術力と独自の文化を持ち、古代日本のなかで、重要な役割を果たしてきた古代王国があったことを裏付けています(青銅器の国)。また、出雲では良質の砂鉄が採れ、古代より鉄生産は行われていました(製鉄の国)。

 

 

【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二)

 

◆◇◆古代出雲は神話の源郷、八雲立つ出雲の国

 八雲立つ出雲の国は、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土です(※注1)。この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動させたのです。出雲には神話や伝承の舞台とされる場所が数多く残されています。これらの神話・伝承を、拙速に歴史的事実と混同することは厳に慎むべきことですが、しかし出雲の風土(文化的風土)はそうした神話や伝承の世界(神話は生活共同体の中で共同認識に基づいて生じたものであり、共同体の信仰がなければ消滅してしまう集団表象。古代の人々が何に感応し、何を価値として生きていたかが見えます)が、そこここに(※注2)生き続けているような不思議なリアリティをもって迫ってきます(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)出雲の国の自然は、北から半島・湖沼・平野・山地と見事に配置されています。出雲の国はこれらが互いに照応しながら出雲の国の独自な風土を作り出しています。出雲の国はむくむくと雲の湧き立つのが極めて印象的な国です。寄より来る波に洗われる島根半島には、対馬海流が遥か彼方から南方の文化をもたらします。入海・内海や潟港は、古代には外来の文化が留まる良港でした。東の意宇平野と西の杵築平野には五穀を稔らせる狭いが肥沃な平野があります。その背後に横たわる深い山地には良質な砂鉄を産します。

(※注2)黄泉国訪問神話の伊賦夜坂・猪目洞窟、八俣大蛇退治神話の斐伊川・船通山、国譲り神話の稲佐の浜、美保神社の諸手船神事・青柴垣神事などや、国引き神話の島根半島・三瓶山・大山、佐太大神誕生神話の加賀の潜戸、カンナビ信仰の茶臼山・朝日山・大船山・仏経山、神在月の神迎祭・神在祭・神等去出祭などに生き続けています。特に『出雲国風土記』が伝える出雲の神々は、出雲の風土と照応して個性豊かな姿を見せてくれます(出雲の風土がそのまま人格神となったような面影を見せます。『記・紀』神話に出てこない独立神が十四柱もいます)。また、出雲のあちこちには古い伝統をもつ神社があり、古くから信仰があったことを窺わせます(熊野大神、野城大神、佐太大神といった大神伝承、出雲宗教王国の源流)。

(※注3)日本に魅せられ、神話の地・出雲に住み着いて日本研究に生涯を捧げたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『日本印象記』の中で、「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」と述べています。また、ハーンは『杵築』というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べています。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べています。

 

 

【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(三)

 

 

◆◇◆神在月と神在祭、旧暦十月出雲に神々が集う

 旧暦十月の和名は「神無月(かんなづき)」(「神去月(かみさりづき)」)(※注1)といいます。日本のここかしこに居られる八百万の神々が、年に一度、出雲に集まるため、「神さまがいなくなる月=神無月」(※注2)と名付けられたそうです。日本全国が神無月でも、出雲では「神在月」となるのです(神在月の期間には毎年決まって激しい北西の季節風が吹き、海では波が荒れ、島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れます)。出雲に集まった神々は、人には計り知ることのできない諸般の事ごとをお決めになるのです(神議り=かむはかり)。翌年の酒造りや男女の縁結びも、このとき決まるといわれます(神々は出雲に参集して会議を行うほか、舟遊びをしたり、漁労や収穫の検分をしたりと、さまざまな伝承が残されています)(※注3)。出雲大社では旧暦十月十日の夜、全国から八百万の神々が集まるのをお迎えするため「神迎神事」(竜蛇神迎えの神事)が厳かに営まれます。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)旧暦十月は、神無月(かんなづき)と呼ばれます。全国の神々が出雲の国に集まって、地域の神々が留守になるので「神無し月」と呼ばれするのが一般的です。神無月の由来については、その他さまざまな説があります。まず、一つ目は、陰陽説からくるものです。陰陽説で神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされます。つまり「陽(かみ)無月」が「神無月(かんなづき)」に転化したという説です。また、陰神とられるイザナミ尊が、出雲で崩御したのは十月なので、「(母)神の無い月」という考え方もあります。二つ目は、神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説です。神嘗は新穀を神に捧げることです。十月はこの神嘗のための月という解釈です。また、十月は翌月の新嘗の設けに、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意から来ている月名で、「神無月」は当字だとしている説もあります。

(※注2)また、神無月(かんなづき)の旧暦十月は全般に行事や神事が少ないため、旧暦十一月に行われる稲の収穫祭「霜月祭」のための、物忌みの期間なのではないかという説があります。また稲作の神さま(田の神さま)が、秋になると山に帰って山の神さまになるという信仰から行われる「神送り」がありますが(地域によって神送りの日程が異なるのは、収穫時期の相違が反映していると考えられます)、この「神送り」で、本来は山に帰るはずの神さまが、出雲信仰と結びつき出雲に行くことになったとする説もあります。

(※注3)一体、神々は出雲の地に集って一体何を話されるのでしょうか? 「神事(幽業、かみごと)、すなわち人には予めそれとは知ることのできぬ人生諸般の事ごもを神議り(かむはかり)にかけて決められる」と信じられています。要するに、むこう一年間の人々の全ての縁について決める、というのです。ですから、一般的に言われている「縁結びの神様」は、別に男女の縁だけを言ったものではないのです。しかし、神々来臨の目的は各社各様です。

 

 

【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四)

 

 

◆◇◆神在月と神在祭、出雲大社の神在祭、出雲に神々が集う

 神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼びます。神在祭の中でも旧暦の十月十日から始まる出雲大社の神迎祭(※注1)(※注2)、十一月二十日から始まる佐太神社の神迎祭、十一月二十六日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られています。このほかにも、旧暦の十月一日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われています(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※1)旧暦十月、出雲では日本各地から集まる神さまをお迎えする「神在祭」が行われます。出雲大社では、旧暦十月十日の夜、海の彼方から依り来る諸神たちを神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まります。神々はこの期間そこに滞在され、会議は境外の海岸に近い上ノ宮で行うそうです。今ではこの期間でも奏楽をしますが、本来は静謐を第一とし、さまざまな社中法度がありました。ことに最後の旧暦十七日夜は「神等去出(からさらで)」といい、社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれています。この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社・神魂神社・朝山神社・万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立しました(神々来臨の目的は各社各様です)。神在祭が終わって十一月二十三日の夜からは、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われます。

(※注2)出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようです(井原西鶴の『世間胸算用』に「出雲は仲人の神」という言葉が見えます)。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の『節分』や『福の神』にはその思想が窺えます。出雲へ旧暦十月に諸国の諸神が参集するということは、すでに平安末期の藤原清輔の歌学書『奥儀抄』に「十月天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故にかみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の『徒然草』に「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とあります。それが何処まで遡れる伝承かは明らかではありません。

(※注3)出雲国は他の諸国と比べて特別な宗教性があったようです。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、『出雲国風土記』(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが百八十四社、それ以外のものが二百十五社、合計三百九十九社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうです)もあります。平安時代の『延喜式』(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の百八十四社に三社を加えた百八十七社(座)が式内社となっています。その数は隣の因幡国の五十座、伯耆国の六座、石見国の三十四座に比べて、ケタ外れに多いのです。畿内の山城国百二十二座、大和国二百八十六座、伊勢国二百五十二座など、一級クラスと肩を並べるものです。山城国や大和国に官社が多いのは、政治の中心がそこにあったからで、その地の宗教性とは無関係ですし、伊勢国は神宮との関係が深いからだと考えられます。しかし、出雲に官社の数がこれほど多いのは、朝廷と特別な親近関係があったというよりは、出雲独自の宗教的性格の故であると考えられます。

 

 

【出雲学】神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五)

 
 
◆◇◆神在月と神在祭、出雲大社の神在祭、神話世界と神事儀礼

 「神在祭」は、祭りといっても一般の祭りのような囃子や太鼓・笛の鳴る賑やかなものではありません。神々の会議処である上ノ宮(かみのみや、出雲大社の西方八百メートル)で神在祭は行われます。そして、御旅社舎である境内の十九社でも連日祭りが行われます。また、この神事の七日間、「神々の会議や宿泊に阻喪があってはならない」というので、地元の人々は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので「御忌祭」(おいみさい)ともいわれています(※注1)。引き続き、八束郡にある佐太神社に向われ、神在祭が行われます(会議は、二回に分けて行われるといわれています。まず出雲大社で旧暦十月の十一日から十七日までの間開かれ、次に佐太神社に移動して旧暦十月二十六日まで会議の続きを行います)。実際に出雲大社と佐太神社では、その期間に神在祭が行われます(※注2)。そして、簸川郡斐川町の斐伊川のほとりにある万九千神社に向われ、旧暦十月二十六日に行われる神送りの神事を最後に神在月に集った八百万の神々は帰国されるのです。出雲大社だけが全国的に有名ですが、実は出雲地方全体で神々をお迎え・お見送りしているのです(※注3)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)神在祭の神迎え神事(神迎祭)で、海上を照らして寄り来る海蛇(琉球列島海域に生息するセグロウミヘビの一種)を「竜蛇さま(海上を来臨する海蛇)」として迎え、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納されます(海上来臨)。佐太神社の神等去出祭では、その神霊を神目山上から船出の神事でいずこかへ送ります(山上奉祀)。この神在祭で行われる神事の構成は、『記・紀』神話の「出雲系神話」において出雲のオホナムチ命(大己貴神・大国主神)の国土平定事業に際して、海上来臨して霊威を発揮した幸魂・奇魂もしくは和魂を大和の三輪山(御諸山・三諸山)の「神奈備」に送り奉斎したという神話の構成と類似しています。この他にも、出雲・佐太大神誕生説話、大和・三輪山の丹塗矢説話、山城・賀茂別雷神誕生説話との類似性があります(出雲・麻須羅神=黄金の矢=竜蛇、大和・大物主=蛇神=八尋熊鰐=丹塗矢、山城・火雷神=丹塗矢)。このような類似の説話には、蛇神祭祀の習俗が色濃く残されているようです。

(※注2)この出雲の神在祭の神事と『記・紀』神話の「出雲系神話」との類似は、神話世界と神事儀礼によって再演され続けているようです。神在祭と出雲系神話の両者の基盤に古代から現代へと続く出雲世界の海岸漁村の寄神信仰が存在します。しかし、古代出雲世界は、ヤマト王権にとっては不気味な蛇神祭祀の習俗を保持するものとイメージされていたようです。そしてそれがヤマト王権によって神話的王権秩序の説明世界(大和朝廷は中央集権化を推し進める中、国生み・国作りの理念と構想を整備するため、高天原の天津神に対する葦原中国の国津神の世界を凝集した形で出雲の地方神話を登場させ、大和の「陽」に対する「陰」として国家神話に組み込んでいったのです)へと組み込まれた結果が、大和の三輪山に奉祀された蛇神の神話伝承と考えられます。出雲の神在祭はその構成から見る限り、古代出雲王国の国作り神話における神霊の海上来臨と山上奉祀の物語を儀礼的に再演し続けている祭りであると考えられるのです。

(※注3)神話と儀礼の関係については、古典的ないわゆる神話儀礼派(ロバートソン・スミス『セム人の宗教』、ジェームズ・フレーザー『金枝篇』、セオドー・ガスター『テスピス』など)による、すべての神話は儀礼の説明として生まれた、というような説もよく知られています。その後の神話研究の深まりは、C・レヴィ=ストロース(『神話論』『生ものと火にかけられたもの』『蜜から灰へ』『テーブルマナーの起源』『裸の人』など)などに代表されるように、神話の多義性(多様性・多面性)が指摘され、複数の立場からの解釈が神話の多様で多面的な側面を浮き彫りにするとされています。神話は時代や地域を超越する普遍的な側面と、そこに規定される特殊な側面とをともに含んでいます。
 
 

【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(一)

 

 

◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、御座替神事

 九月二十四日と二十五日に、島根県八束郡鹿島町の佐太大社では、かがり火と灯明がともる中、「御座替神事」が厳かに営まれます(九月二十四日に御座替神事を行い、翌二十五日に佐陀神能を行う)。

 この「御座替神事」は、同社の古伝祭の一つで、神在月(陰暦の十月に日本全国の神様が出雲に大集合して会議をするという)に先だって、神殿内陣の神座のござ(御座)を新しく敷き替える行事です(摂社末社から正中殿に至るまで順々に御座を敷き替えて、二十五日に幣帛を祀ってお祝いをする)。このことにより、神々の力が常に新しく続くと考えられていました。

 九月二十四日午後八時から行われた神事では、神職らが二十一ある末社から南殿・北殿・本殿の順に、宍道湖北岸で栽培されたイ草で作った新しいござに敷き替えていきます。

 舞殿では、神事に合わせ、出雲神楽の源流といわれる佐陀神能(神楽に能の所作を取り入れたもの、国の重要無形民俗文化財に指定)の「七座の舞」(鼕-どう-や笛などの音に合わせ古式ゆかしく行われる優雅な舞)を奉納されます。

 この神事は、神在月には全国から神様が集まって来るので、神座のござ(御座)を新しく敷きかえて、きれいにしておこうというものです。もう千二百年年以上続いている、古式ゆかしい神事です。

 


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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
出雲の風土の中にいると、神話や伝承の世界が、
そこここに生き続けているような不思議なリアリティを感じてしまいます。

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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(二)

 

 

◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、出雲国二の宮

朝日山(三百四十二メートル、神名火山=神奈備山)の麓に鎮座する佐太神社は『出雲国風土記』(天平五年=七三三年)には「佐太御子社」と記され、『延喜式』(延長五年=九二七年)には「佐陀神社」と記され、「佐陀大神社」とも称せられる由緒ある古社です(この地は、出雲でも相当早い時期に人が住み着いた所で、縄文早期の佐太講武貝塚や弥生の古浦砂丘遺跡があり、はやくから農耕が芽生えていたことが窺える)。

祭神・佐太大神(または、佐太御子神)を祀り、本殿は南殿・北殿・中殿の宏大な三殿が並び、佐陀三社とも呼ばれる。古来より、出雲大社に次ぐ出雲国の二の宮と崇められてきました。

この本殿は朝日山を背に神殿が三殿並立という珍しい建て方で、豪壮な大社造になっており、国指定重要文化財にもなっている。また、祭神・佐太大神(のちに、猿田彦神と同一視されるようになる)は『出雲国風土記』における中核神であり、この神社の地位がひじょうに高かったことを示唆しています。

御祭神は、北殿に天照大神、瓊々杵尊、中殿に佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉之男命 、南殿に素盞嗚尊、秘説四座が奉斎されています。

祭礼は年に七十五回行われたといいmさうが、今でも御坐替神事とお忌祭(お忌み祭=おいみまつり。社伝によれば、イザナミ命=伊邪那美命・伊弉冉尊の去った旧暦十月に八百万の神々が佐太神社に参集されるので、厳粛な物忌みがなされるところから、神在祭を「お忌み祭=お忌みさん」というとしている)が有名です。

佐太神社の約百メートルほど東に佐太神社の摂社の田中神社があります。この神社の歴史も古く、『出雲国風土記』にその名を見ることができます。出雲地方では神無月(十月)を、全国の神々が集まるとして神在月といい、佐太神社では、十一月二十日~二十五日(旧暦十月)にお忌さん(お忌みさん)と呼ばれる神在祭が行われます。

毎年、九月二十四日には神座に敷く御座を敷き替える御座替神事が行われ、翌日に奉納される佐陀神能は、神楽に能の舞を取り入れたもので深夜まで続きます(国の重要無形民俗文化財)。

佐太神社では古来、竜蛇(海蛇を神の使いとして信仰する竜蛇信仰)は恵曇の古浦から上がるとされていました。古浦とそのとなりの江角浦とを合わせて神在浜と呼ばれるが、そこには板橋という佐太神社の社人が居住して、松江藩から食禄を受け、竜蛇上げの職を奉していたといわれています。

竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇(背が黒色をしており、脇腹の色が金色をしている)で、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるといいます。

そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」とかかれ、「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと思われています(お忌み祭の頃の季節風=お忌み荒れによって浜に打ち上げられる。こうした竜蛇信仰は、海の彼方から依来る神という古代信仰である)。

 

 

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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
出雲の風土の中にいると、神話や伝承の世界が、
そこここに生き続けているような不思議なリアリティを感じてしまいます。

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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(三)

 


◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(1)

 島根半島の北の加賀の神埼には、通り抜けることのできる洞穴があって、「加賀の潜戸(かがのくけど)」(島根県八束郡島根町潜戸鼻岬の海岸洞窟。新潜戸と旧潜戸があり、旧潜戸は岬の胴体部で巨大な洞窟が広がる。玄武岩、集塊岩などが海食によりできたもの)(※注1)といわれている。

 また、加賀の潜戸の近くには賽の河原もあり、幼い子を亡くした親たちが哀しみを持ってくるといわれている。この加賀の潜戸は、佐太神社の祭神「佐太大神」が生まれたとする説話が、『出雲国風土記』(嶋根郡の条などに)に残されている(いくつかの記述がみえる)。

 一つは佐太大神の生まれた加賀郷の名の起こりを説いたもので、「佐太大神が生まれた所である。御祖のカミムスビ命(神魂命、神産巣日神か?、伊邪那美命か?)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)(※注2)が『闇き岩屋なるかも』といって金の弓箭(黄金の弓矢)で射たとき、光り輝いたから、加加という。神亀三年、加賀と改める。」とある。

 もう一つの記載は、「加賀の神埼には窟があり、高さ約十丈、周は約五百二歩で、東西北に通じている。所謂、佐太大神の生まれたところである。生まれる時に臨み、御祖のカミムスビ命(神魂命)の弓箭(弓矢)がなくなってしまった。御祖のカミムスビ命(神魂命)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命)は、『吾が御子、麻須良神(ますらがみ、本来は麻須羅神が佐太大神であったのかもしれません)の御子(佐太御子神?)に坐さば、亡せたる弓箭出で来』と祈願した。そのとき、角製の弓箭が水の随(まにま)に流れ出た。『此は非(あら)ぬ弓箭なり』といって投げ捨てた。また金の弓箭が流れ出てきた。この金の弓箭を取って『闇鬱(くら)き窟なるかも』といって射通す。即ち、御祖のキサカヒメ命(支佐加比売命)の社が、この所に鎮座する。」とある。

 また、佐太神社と祭神については、『出雲国風土記』には「佐太御子社」ともある(『延喜式』神名帳では「佐神社」とあり、祭神は一柱です。本来「佐太御子社(佐太御子神)」と「佐神社(佐神大神)」は別で、二社あったのであろうか? 謎である)。すると、その親神「佐太大神の社」が別に存在することになる。

 もし、佐太神社の祭神が「佐太御子神」(従来、佐太神社が「秘説」としてきた主祭神を、明治になって、「佐太御子大神」と明示するようになった)ならば、『出雲国風土記』にあるように、朝日山(佐太神社の西二キロメートル)の麓に「佐太大神の社」があったことになるのだが、はたしてどうなのであろうか? (この点は複雑で難しく、その後の解釈などが加わり、多くの神々も加えられて、変化している。もう少し調べてみようと思う)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)加賀の潜戸の近くには、加賀(かか)神社が鎮座する。祭神は、キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)・猿田彦命(佐太大神)・イザナギ命・イザナミ命・天照大神である。近世には、潜戸大明神とされていた。

(※注2)キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)は赤貝の神格化とされ、『古事記』には、八十神に火傷を負わされて死んだオホナムジ命(大穴牟遅命・大穴持命)を蘇生させるために、カミムスビ命(神産巣日之命)がキサカイヒメ命とウムカイヒメ命を遣わしたとある。


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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
出雲の風土の中にいると、神話や伝承の世界が、
そこここに生き続けているような不思議なリアリティを感じてしまいます。

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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(四)


◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(2)

加賀の潜戸を貫いた金の弓箭(黄金の矢)とは、的島の東から射しこむ太陽の光線(黄金の矢を持つ太陽神)を比喩したものとされています(※注1)。そこから、黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞穴(※注2)に矢を放つとは、太陽神とそれを祀る巫女の交合の儀式と考えられています(※注3)。このような加賀の潜戸という自然の造形が、壮大な説話を生み出したのです(本来は闇見の国の神話か?)。

さらに古代には、佐太川を境に、西を狭田の国、東を闇見(くらみ)の国と別個の小国家が成立していたようです(国引き神話にも登場する)。ところが、この二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになります。それは、もともと闇見の国を代表する祖神の社(久良弥社=くらやみのやしろ)があったのですが、狭田の国(佐太大神)の勢力に飲み込まれてしまった(闇見の国の神話が狭田の国の神話に飲み込まれた)結果なのかもしれません。

すると、加賀の潜戸の説話で、「佐太大神」としているのは、実は、「佐太御子神」の誤伝で、もともと麻須羅神こそ「佐太大神」(※注4)であったのかもしれません。即ちこの説話は、古くは狭田の国の「佐太大神」が矢になって、闇見の国のキサカヒメ命(枳佐加比売命・支佐加比売命、神魂命の御子)のもとに通い、その結果として「佐太御子神」の誕生を見たとする説話であったと思われます。結果、二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになるのです(狭田の国が闇見の国へ勢力を伸張したことの反映)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)新潜戸から見た的島の方向は夏至の日の出の方向にあたり、反対に的島から見た新潜戸は冬至の日没の方向にあたる。夏至の朝日が生、冬至の夕日が死を象徴するものと考えられていたようだ。この説話には、神婚説話や日光感精説話が見て取れる。

(※注2)洞窟(大穴)で生まれたということで、この佐太大神とは実はオホナムヂ命(大穴牟遅命・大穴持命)のことではないかとする説もある。しかし、オホナムヂ命(所造天下大神大穴持命)を奉ずる勢力による出雲統一の以前に、この地には佐太大神の勢力圏であったようだ。神々の通い婚の説話は、オホナムヂ命に代表されるが、加賀の潜戸の説話のように佐太大神の通い婚の説話があっただ。

(※注3)元来、出雲国の佐太大神の原質は太陽神(天照神)であったのであろうか。太古より、わが国の太陽信仰は広く行われており、各地に所在する天照神(プレ・天照大神)もそうであり、大和の三輪山の山頂にも太陽神を祀る社があり、『日本書紀』(応神記)のアメノヒボコ(天之日矛・天日槍、新羅の王子)も太陽神とされている。

(※注4)佐太大神は狭田の国の祖神である。『出雲国風土記』には、この狭田の国の東部にあった秋鹿郡の神名火山の条に「所謂佐太大神の社は即ち彼の山の下也」とある。現在の佐太神社の位置からすると、きわめて不自然だ。神名火山(現在の朝日山)の下にあったのが「佐太大神の社」(神名火山の山容を仰ぎ見る地から、銅剣と銅鐸が同時に出土)で、現在の佐太神社は本来「佐太御子神の社」(神名火山の山容を仰ぐことさえできない所に鎮座)と考えたほうが辻褄が合いそうである(すんなりと解釈できる)。

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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動したのです。
出雲の風土の中にいると、神話や伝承の世界が、
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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(五)


◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(3)

祭祀の面からみると、佐太神社では古来より、竜蛇信仰(海蛇を神の使いとして信仰、竜蛇様)がありました。竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇で背が黒色をしており、脇腹の色が金色をしています。体長は六十~七十センチの小さな海蛇ですが、眼も歯も鋭く、威厳と神秘性が感じられます。

南方産のセグロウミヘビが毎年決まった頃(晩秋、日本海に北西の風が強くなる頃、出雲の海は急に暗くなり海面は荒れて泡立つ。こうした天候の急変を「お忌み荒れ」という)に季節をたがえずやって来るので古代の出雲の人々は、竜蛇様(あるいは竜神の使い)として篤く信仰していたようです。

夜、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるといいます。そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」と書かれ、この「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと考えられていました。

こうした竜蛇信仰は、海の彼方から依り来る神という古代信仰(マレビト信仰、海の果ての常世国から豊饒をもたらす神、対馬海流がもたらす南方文化への憧れと信仰)とされています。すると、佐太大神も、そうした古代出雲の海人族が信仰していた、竜蛇信仰の依来る神(竜蛇様)なのかもしれません。

また、海人族との深い関わりから、猿田彦命(猿田彦大神)とも同一視されます(サタ・サダとは岬のことなのか? 猿田彦命には、縄文時代より航海の民・海人族の信仰していた、航海神・太陽神の要素が見て取れる)。

もう一つ、気になるのは「金の弓箭」のことです。矢というと類似の説話として、『山城国風土記』逸文の「賀茂の丹塗矢」伝承(賀茂建角身命の御子・玉依日売と川上から流れてきた丹塗りの矢と感けて、賀茂別雷命が生まれたとする御子神伝承)などを思い出します。

金の弓矢は雷火か太陽光を象徴しているようで、こうした説話は太陽神・雷神とそれを祀る巫女の交合の儀式(神婚説話・日光感精説話)を表しているようです。

どうも、賀茂説話や三輪山・大物主説話との関係(類似の説話の存在は、出雲一族の大和・山城への移住と関連があるのか?)が気になるところです(柳田国男の「玉依姫考」などによると、古代信仰に共通するモチーフのようだが)。

『出雲国風土記』(嶋根郡)によると、生まれた佐太大神(または佐太御子神)は、佐太国(狭田国)の総鎮守神であり、それがカミムスビ命(神魂命)の御子(キサカヒメ命=枳佐加比売命)から生まれたとすることから、佐太大神を奉斎する氏族が神魂命を信仰する祭祀集団と何らかの関係があったことを示しているようです。

この神魂命については謎が多い神です。カミムスビ(神産巣日神・神皇産霊神)といえば、『記・紀』では天地初発のときに生まれた独神であり、タカミムスビとカミムスビは併称されています。また、『出雲国風土記』では神魂命と記されており、性格は『記・紀』と異なっています。

すると、神魂命は島根半島の太古よりの、海辺の素朴な女神であったのが、本来の姿であったのでしょうか? 魂を司るとする出雲土着の神の総称であったのでしょうか? 神魂命の信仰については、神魂神社で一度考察してみようと思います。


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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(六)


◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、お忌み祭(神在祭)(1)

旧暦十月は亥月の和名で、一般に神無月(かんなづき)と呼ばれます。それは全国の神々が出雲(※注1)に集まるからだそうです(※注2)(※注3)(※注4)。逆に出雲ではこの月は神在月(かみありづき)と呼ばれ、出雲大社や佐太神社・神魂神社などで(※注5)、訪れた神を迎え祀る神在祭が行われます。

佐太神社の神在祭(お忌み祭・お忌みさん)では、現在月遅れの十一月二十日に神迎えが、二十五日に神送りが、三十日には止神送りが行われます(※注6)。この間がいわゆる「お忌み」の期間で、歌舞音曲は慎まれます(昔は散髪・針仕事まで遠慮して物忌みしたそうだ)。かつては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったようです。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)陰陽五行説によれば、出雲は大和からは、西北の「戌亥隅」に当たる。一方、「易」の十月の卦は「全陰」だ。陽の気の象を「天」、あるいは「神」とする。すると、全陰の卦は神の不在を意味するとされている。十月はまた太陽の光りが衰微の極に近く、あらゆる点から考えて神不在とされたのだ(十一月は一陽来復が迎えられるとされた)。

出雲の佐太神社『祭典記』には、「古老が伝えていうには、此処出雲は日域(日本)の戌亥隅(西北)という陰極の地であり、女神先神伊邪那美は陰霊で、亥月という極陰の時を掌る神である。」と記している。

このことからも、出雲の旧暦十月の祭りは、祖神・伊邪那美命の追慕を名目にして参集するとも考えられた。そこからか、「神在祭」は、一名「お忌み祭り」と呼ばれる。

(※注2)神在月が成立については、平安時代末(一一七七年)の『奥義抄』に、すでに神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。それ以前の成立であることは間違いないと思われる。

(※注3)神在月に出雲に集まらない神様もいる。それが留守神だ。結構この留守神伝承は各地に広がっていて、特に恵比寿、竈神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多いようである。恵比寿は関東、東海地方、竈神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。

このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持っている。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。

(※注4)神無月を中心に参集する神々は氏神・鎮守系が多く、早立ちする神々は天神が多いようだ。そして最後に越年するまで滞在してしまう神々は、山の神、田の神、亥の子神、竈神等の農耕神が多いとのことである。

(※注5)神々は出雲のどこに集うのであろうか。多くの方が出雲大社に集まると思われているが、実は一ヶ所の神社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所かの神社を参集して回る。

朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など。

(※注6)神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。出雲滞在期間は大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する、の四つタイプあるようだ。


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【出雲学】島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(七)

 

◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、お忌み祭(神在祭)(2)

現在では佐太神社の神在祭(お忌み祭・お忌みさん)は、新穀を神々に捧げるという新嘗祭(にいなめさい)と同義のものとして行われています(これはこの神名火山に新穀を捧げる神名火山祭に発祥しているからと考えられている)。しかし近世においては、当時の祭神・イザナミ命(伊邪那美命・伊弉冉尊)(※注1)(※注2)が旧暦十月に出雲で崩御し、神名火山の山塊にある足日山(当時はこの山が神名火山と考えられていた
ようだ)に埋葬されたと考えられていました。

イザナミ命は神々の母として考えられていたので、当時の神在祭は、神々が母神に対する孝行のために、その崩御した旧暦十月、埋葬された近くの佐太神社に集まるのだとされていたのです。その故か、神無月の語源について、母神の無い月と考える向きもあったようです(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)『古事記』のイザナギ命(伊邪那岐命)・イザナミ命(伊邪那美命)の神話の中に、イザナミ命が死んで黄泉の国である出雲へ行くという条がある(「黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」としている。『日本書紀』では紀伊国熊野の有馬村としている)。

イザナギ命が諦めきれず、出雲まで追ってイザナミ命に御殿の戸を挟んで会う。イザナミ命の覗くなという言い付け(禁忌)を聞かず、イザナギ命が妻の姿を覗くと腐乱した死体があったという。この条は出雲の葬儀方法で追葬の一種である風葬の風習(日本では沖縄、奄美大島などのごく一部で行われている。出雲では、藤と竹で編んだ籠に死体を収め、高い山の常緑樹に吊るし、死体が腐って骨だけになってからその骨を丁寧に洗って埋葬する方法である)を思い起こさせる。

『記・紀』神話には、出雲の信仰や習俗・風習を見て取ることが出来る。これは何を意味するのであろうか? 宮廷の「旧辞」に収められていた出雲の神話をベースに、淡路島を拠点とする海人族のイザナギ・イザナミの国生み伝承などを取り入れ、新たに宮廷神話(国家神話・王権神話・天皇家神話)が作られたのかもしれない。

(※注2)十月の異名を「神無月」という。一般には、全国の神々が出雲に集い神が不在になるからとされている。これが定説となったのは十二世紀の半ばだというが、異説も多くある。一つには、世界を陰・陽の二つの原理から説く陰陽説(陰陽五行説)による説で、神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされた。

つまり「陽=神の無い月」が神無月に転化したというのである。この考え方を、具体的な神に結びつけ、神々の母であり、陰神とられるイザナミ命が(出雲で)崩御したのは十月とされ、「(母)神の無い月」というわけだ。また、神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。神嘗は新穀を神に捧げる祭儀(祭礼)であるが、十月はこの神嘗のための月だったと見る説である。

神無月の由来については、この他にもたくさんありハッキリしていない。しかし、祭礼行事を見る上では由来だけではく、祭礼に対する考え(その意識の変化)を確認することも重要なようだ。実際、出雲諸社の神在祭でも、どの説を重視するかによって、祭礼の意味や起源を窺うことが出来そうである。

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「八雲立つ出雲の国」には、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土が今もあります。
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